京都大学経済学研究科東アジア経済研究センター ニュースレター

京大東アジアセンター News Letter

201522日発行 555

 

 

 

 

 

東アジアの歴史認識の壁

京都大学経済学研究科教授

堀 和生

 

 

東アジア地域における経済的連携と協力を阻む一つの大きな障害として、関係する各国民の歴史認識に大きな隔たりの存在がある。主に戦前における日本とアジアとの関係について、具体的には日本の植民地支配と戦争の問題である。すでに、戦後70年を経ているが、この歴史認識の対立と摩擦は間欠的に吹き出して、政治と経済に甚大な打撃をあたえる。第二次大戦後、ヨーロッパは類似の問題を何とか乗り越えてEU結成まで到達したが、東アジアでは今日まで解決できていない。今後も相互に理解しようとする努力なしには、自然に和解に向かうとは思われない。

歴史認識問題の解決の糸口は、単純ではあるが歴史的事実についての知識の共有であると考える。今回は、その代表的な一つである日本と韓国の間によこたわる「従軍慰安婦」の問題をとりあげて考えてみたい。

【新史料の発見】

一昨年8月韓国で慰安婦に関する新史料が発見された、というニュースがあったがご記憶であろうか。私は経済史の研究者であるが、この史料の日本語翻訳事業に携わった経緯があるので、その史料を紹介しながら少しコメントしたい。

従軍慰安婦問題に関する研究の大きな障害は、事実を明らかにできる史料が乏しいことである。日本と連合軍側の史料は発掘されているが、朝鮮人・韓国人側の史料は、長い時間をへた後の証言のみであった。今回発掘されたものは、慰安所の従業員が当時書いた日記であり、まさしく第一次史料である。筆者はビルマ・シンガポールに設置された軍慰安所の帳場掛の朝鮮人である。日記は194344年の二年分が残っており、草書体のハングルで書かれている。一日も欠かさずに記されており、後年の手は一切加わっていない。筆者は特定されているが、すでに物故している。韓国の古書店経由で、ある博物館に収蔵され、研究者によって発見、解読された。この日記は、安秉直(ソウル大学名誉教授)氏が校閲して、原文と現代韓国文に詳細な解説がつけられ、韓国において出版された。

安秉直翻訳・解題『日本軍慰安所 管理人の日記』イスプ 2013年(韓国語)

この日記は、堀和生(京都大学経済学研究科教授)と木村幹(神戸大学国際協力研究科教授)が学術研究用に翻訳をおこなった。日本では刊行されていないが、韓国の落星台経済研究所のホームページに研究用史料として保存されているので、閲覧することが可能である。

http://www.naksung.re.kr/xe/index.php?mid=sepdate&document_srl=181713

ただし、これはあくまで研究用史料の草稿なので、他の目的で複製・配布することはできないことは注意されたい。

 

【史料から読み取れる慰安所】

日本における慰安婦問題に関する関心は、慰安婦を組織する過程で軍や行政による強制連行があったか否か、代価が支払われていたか否か、という点に集中しており、従軍慰安婦・慰安所の全体像に関する認識は乏しい。この日記から読み取れる事実は実に多様である。

最も重要なのは、慰安所と軍の関係である。「航空隊所属の慰安所」「兵站管理慰安所」「軍専用慰安所」という呼び方は日記中に頻繁に出てくる。施設は軍が提供する場合があった。慰安所は、軍司令部、兵站司令部等に「営業日報」「月別収支計算書」「営業月報」等を、恒常的に提出している。許認可書類としては、従業員らの在留や退去証明願、慰安婦らの在留許可願、就業許可願、閉業許可願、旅行証明願書等があった。2週間ごとに軍医による性病検査が行われ、避妊具はすべて軍支給である。本日記にはビルマで27ヶ所、シンガポールで12ヶ所の慰安所がでてくるが、部隊移動に従って軍の指示で移動している。移動には護衛がつく場合もあり、まれに慰安婦達が危険地域へいやがるのを強制的に移動させられる例もでてくる。

日記の筆者は1942710月釜山から慰安婦19人と一緒に乗船して南方にむかった。筆者達のグループは、日記中で「第4次慰安団」とよばれる団体の一員であったことが記されている。この日に釜山を立った慰安婦の一団については、別の2つの史料で確認できる。元慰安婦文玉珠さんの回想記(森川真智子著『文玉珠:ビルマ戦線盾師団の「慰安婦」だった私』梨の木舎 1996年)に、彼女が同じ日に釜山から船に乗ったことが記されている。さらに、連合軍がビルマのミシナ(蜜支那)で捕虜にした朝鮮人慰安婦の尋問調書によれば、同日703人の慰安婦と90人の業者・家族を乗せた軍の調達した船団が、釜山からシンガポールに向かって出航している(国戦時情報局心理作戰班『日本人捕虜審問報告』第49号。吉見義明編著『従軍慰安婦資料集』大雪書店 1992年所収)。なお、この性格の異なる3つの史料にでてくる日付や人名などは驚くほど一致していることがあり、このことで文玉珠さんの記憶による証言の信憑性が高いことが裏付けられる。

この慰安婦の大量動員については、既存の研究で考証が行われている。19425月南方地域の掌握を終えた南方軍の発議から、日本帝国各地の政府・軍司令部への協力要請→周旋人(すなわち慰安婦業者)への慰安婦募集依頼→周旋人による募集、等手順で慰安婦の動員が行われた。実際に募集された1942年については、残念ながらこの日記が残っておらず、その具体的な過程は不明である。

日本外務省調査局編『海外在留本邦人調査結果表』によって、当時日本人・朝鮮人の地域別在留者数を知ることができる。この資料によれば194010月東南アジアにいた朝鮮人は、男が49人、女が6人、インド・ビルマ地域(区分されていない)では男が22人、女が0人である。日本が太平洋戦争を始めるまで、ビルマ地域には朝鮮人女性はまったくおらず、東南アジア全域でも朝鮮女性は6人で、彼女らは皆無就業者であった。つまり、開戦前にこれら南方地域に朝鮮人接客女性はおろか、有職者女性1人さえもいなかった。膨大な数の慰安婦は、すべて日本軍によって運ばれてきた。ちなみに、朝鮮から南方への移動航路は、客船ではなく軍の専用船で無料であった。

慰安婦の処遇を巡る評価の中で、慰安婦の自主廃業が可能であったかどうかは大きな争点である。朝鮮を出て2年が経過した1944年後半期ごろから、慰安婦の廃業に関する記述が出てくるので、それらは慰安婦の年季明けと関連しているのかも知れない。その時に筆者が暮らしていた後方地シンガポールでは、慰安婦の廃業と朝鮮への帰国があった事実は確認できる。ただし、1945年初めから南方と内地との交通手段はほとんど途絶した。さらに、部隊とともに移動していたビルマ前線地域の軍慰安所では、帰国のすべがより早くからなくなっていた。ビルマには日本軍と離れた朝鮮人社会はほとんどなかったので、慰安婦の自主廃業や帰国は実際には困難であったと思われる。先に引用した連合軍捕虜調書では、ビルマ内の慰安婦の廃業が軍によって許可されなかった事例が述べられている。1944年からビルマは連合軍と日本軍の最も熾烈な戦場となったことはよく知られている。そして、多くの従軍慰安婦が戦闘に巻き込まれて悲惨な最期を遂げたことは、連合軍側の史料の研究によって詳細に明らかにされている。浅野豊美(中京大学国際教養学部教授)「雲南・ビルマ最前線の慰安婦達−死者は語る」参照。

http://www.awf.or.jp/pdf/0062_p061_088.pdf

日本軍部や戦争史の専門研究者である永井和(京都大学文学研究科教授)氏は、軍の規定やその運用を詳細に分析したうえで、軍慰安所とは将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設であったと結論した。そして、軍直営でない場合は軍が「請負業者」によって慰安所を経営させたとしている。永井和「日本軍の慰安所政策について」参照。      http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/guniansyo.html#SEC8

この日記によって明らかになった事実は、永井教授による軍慰安所の性格規定と一致しており、その慰安所のあり方が内部史料で明らかになったといえる。この日記に登場する慰安所のほとんどは、業者が経営していた。そして、ビルマの場合は、その多くは朝鮮人であった。それら多くの慰安所はすべて日本軍によって動員・組織されたものであった。軍は兵站の一部として膨大な数の慰安所の設立を計画し、業者を通じて各地で多数の慰安婦を集め、軍の専用運搬船で南方に輸送し、各地の日本部隊に配属して慰安所を運営させた。慰安所は軍によって管理され、作戦の遂行や部隊の移動によって慰安所も移動した。慰安所は外形上では公娼制の擬制を取っていたが、日本軍が日本軍の戦争遂行のために組織動員したものであった。慰安所は業者が経営したが、慰安婦・慰安所を動員した主体は日本軍であり、軍兵站が全体を管理していた。慰安婦と慰安所従業員が、軍属の待遇を受けていたことは、慰安所が軍の兵站組織の一部であったからに他ならない。

 

【慰安婦の貯金と送金】

日々書かれたこの日記には、慰安婦と慰安所従業員・経営者の貯金、預金、送金の話が頻繁に出てくる。この件に関して、経済史研究者として若干コメントしておく必要を感じる。というのは、慰安婦の経済的地位について、「将軍以上のより高収入」とか、「陸軍大臣よりも、総理大臣よりも、高収入であった慰安婦のリッチな生活」いう俗説が流布されているからである。

この日記には慰安婦や従業員が野戦郵便局(軍隊酒保内部に設けられた軍専用の郵便局で、郵便、貯金、軍事郵便為替を業務とする)で貯金や送金をする話がよく出てくる。金額は200600円が多いが、1,000円を越える例もある。慰安婦達が受け取った金を貯蓄や送金をしていたことは疑いがない。野戦郵便局の対象が軍人と軍属のみで民間人は使えないので、慰安婦と慰安所従業員は軍属待遇であったことを確認できる。

そもそも、日本占領時代の南方(東南アジア地域)において円は全く使われていなかったにもかかわらず、この日記中の貨幣単位はすべて円である。このことがもつ意義を理解するには、あらかじめ戦時期南方の通貨決済システムを理解しておく必要がある。

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日本帝国は植民地・占領地を獲得するたびに、それぞれ独自の通貨システムをつくっていた。台湾銀行、朝鮮銀行、満州中央銀行等の植民地銀行の設立である。それらの発行券は日本銀行券と等価で交換する、いわば固定相場制で運営された。これは、それら植民地や占領地と日本内地を緊密に結びつけ、物資、資金、人の移動・交流を円滑におこなうための政策原理として確立された。ところが、これがうまく機能したのは、実は満州国までであった。中国華北・華中の占領地域では、国民政府の法幣との激しい通貨戦と物価高騰のなかで、日本内地と一体化した通貨システムは維持できず、中国聯合準備銀行と中央儲備銀行等の銀行券は激しく暴落した。この事態に対して日本政府は、それら植民地銀行(海外では傀儡銀行と呼ばれている)発行券と日本銀行券との間で、変動為替レートを導入するのではなく、両地域間の資金移動を規制する方法で対処した。つまり、固定為替原理の維持に固執したのである。この点、ドイツが占領地域通貨と本国マルクとの間に為替レートを導入して、資金移動を管理・規制したのとは異なる方法をとった。日本政府は対中国戦争で得た経験をふまえ、太平洋戦争開戦前に、占領する南方(東南アジア)に設ける通貨システムについて十分に検討準備していた。南方には石油、鉄鉱石、ボーキサイト、ゴム、スズ、米穀等、日本が欲しい物資が大量にあるのに対して、日本経済の現状ではそれらに対する代価の物資を供給できないことは明らかであった。物資の交換という正常な貿易関係ではない、日本側の極端な輸入超過を恒常的に維持するために独特な「交易システム」が構想された。194111月の「南方経済対策要綱」で、地域ごとの軍票(軍事手票)の導入が決められていたが、これらは為替レートを設けることなく日本円と等価で固定される。そして資金移動を徹底的に遮断するために、南方と日本内地との貿易は臨時軍事費特別会計による買取として扱い、日本の累積する債務は大蔵省の帳簿上の振替として処理される。これによって、基本的に貿易に関する為替決済は発生しない。これが、一方では極端な片貿易によってハイパーインフレが進行するなかで、日本円と等価の現地通貨表示の軍票を発行するためのメカニズムである(柴田善雅『占領地通貨金融政策の展開』日本経済評論社 1999年、第3部)。

194111月「南方外貨表示軍票」が決定され、日本軍は円表示ではない、占領現地通貨表示の軍票を発行した。たとえばマラヤ・シンガポールであれば海峡ドル、ビルマはルピー、フィリピンはペソ等、多種類の軍票が使用された。1942年設立の南方開発金庫はこの軍票発行業務を受け継いだが、ここで発行された南発券も現地通貨表示である。券面のどこにも円やYENの表示はないが、日本人はこれらを皆「円」とよんでいた。日本側が代価となる物資を提供することなく、日本軍や日本商社がこの軍票によって現地物資を「買収」調達したので、経済の原則どおりすぐにハイパーインフレーションが起こった。194112月を100とした物価指数は、44年末にシンガポールは10,766、ラングーンは8,707まで急騰した。東京126、京城132のような日本帝国の中心地域とは全く異なる、異次元の経済空間がつくりあげられた(日本銀行調査『日本金融史資料』第30巻)。このようなハイパーインフレが日本内地・朝鮮に波及しないようにするには、先述のように資金移動を完全に遮断する必要がある。

19426月南方総軍軍政部総監部「本邦向送金取締規則」では、「南方占領地域に在りては軍政部の許可を得くるに非らざれば本邦(内地、朝鮮……)への送金を為すことを得ず。」として、南方と日本との貿易以外の資金移動を厳格に遮断する制度を設けた。しかし、この占領地通貨システムにはいくつも問題点があった。その一つは、この資金移動を管理するのは軍政当局であったが、資金移動に関わる主体も軍なのであった。軍の財政は臨時軍事費特別会計であり、一律円によって処理される。物資調達のみでなく将兵の給与も円で支払われる。ところが、支払われる円は南方現地では使えない。朝鮮・台湾・満州では問題にならないが、ハイパーインフレが起こっている地域では、様々な不都合が出てくる。まず、現地物資を調達するために、帳簿上の日本円を、急激に価値が下落している現地通貨(軍票・南発券)に換えねばならない。一方で、現地軍当局は現地の運営は現地通貨(軍票・南発券)を使っておこなう。他方で、日本が南方から資金移動を制限するといっても、軍将兵・軍属が日本内地の留守家族に送金したいという要求を抑えることはできない。19458月時点に南方に展開した日本軍将兵は83万人、満州を除く中国では122.4万人という膨大なものになった(旧厚生省援護局調)。このハイパーインフレ地域から、日本への資金移動を制限管理するのが軍であり、送金という資金移動を求めるのも軍人・軍関係者であった。制度上の送金制限額はしだいに圧縮されたが、許認可が軍当局であれば実際には軍関係者の送金は止められない。1943年以後占領地域から日本への労務利益金、政府海外受取(主に郵便預金)が急速に増えていった。その内実はつまびらかではないが、軍上層部も関わった合法・非合法の送金も相当に含まれていたと想像される。許可する主体が送金するのならば、当事者の規制はあまり意味を持たない。将兵の給与額自体は変化がないのであるが、乱発された軍票を、為替レートが導入されていないので、1軍票単位(ビルマはルピー・シンガポールは海峡ドル)は日本1円という原則を利用して、大もうけしようとする軍関係者もでてくることは必然である。こうしてインフレが日本に流入する道が開かれた。

この事態に直面した大蔵官僚は、これらインフレ資金の内地流入を防ぐべく知恵を尽くしてさまざまな制度を設けて対応した。占領地からの資金流入の封殺措置として、送金額の制限圧縮、強制現地預金制度、送金額に一定比率の負担を課する調整金徴収制度、預金凍結措置等が次々と導入された。最後の預金凍結とは、送金分を外貨表示内地特別措置預金と内地特別預金に分割し、そのうえ内地特別預金でも月々の引き出し額を厳しく規制するものであった。19455月華中華南の事例でいえば、送金者は送金額の69倍を現地通貨現地預金とさせられ、内地預金として受け取れるのは外貨表示地預金のわずか1/69にすぎなかった。南方地域についても、内地(朝鮮を含む)に送金しようとする資金については、一部は外貨表示内地特別預金として凍結され、残りを内地特別措置預金としてその引き出しを管理する措置が実施された。このように日本に流入した資金を封鎖することで、資金の「浮動化」の阻止がはかられた。(東京銀行編『横浜正金銀行全史』第5巻() 1983年 第7部。柴田善雅『占領地通貨金融政策の展開』日本経済評論社 1999年 第15章)。ただし、この日本流入資金のさまざまな規正措置は、地域ごと時期ごとに頻繁に変更されており、現在その制度運営のすべてをあとづけることはできない。このように占領地域から日本への送金には様々な規制があり、預金凍結措置によってその引き出しには厳しい制限が加えられていたことだけは確かである。

このような日本占領地におけるハイパーインフレの実態、内地送金の規制、日本円との交換制限等の問題は、多くの旧軍人や引き揚げ者が実際に体験しており、終戦直後には広く知られていたことであった。また、学問的には1970年代に原朗氏(原朗『日本戦時経済研究』東京大学出版会 2013年、第3章。論文の初出は1976年)によってそのメカニズムが明らかにされ、近年は柴田善雅氏や山本有造氏の精緻な研究(柴田善雅 前掲書、山本有造『「大東亜共栄圏」経済史研究』名古屋大学出版会、 2011年 第U部)によって、両地域間の物価乖離の中で固定相場を維持した運用の実態が解明されてきている。ところが、そのような研究成果による知見は、南方の従軍慰安婦問題を考えるときには活かされていない。

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この日記が作成された慰安所は、軍兵站部酒保の管理下にあったが、完全な軍機関ではなく軍組織と民間にまたがる領域に存在していた。性サービスの提供については軍が管理していたが、日々の生活で慰安所は市場に依拠しなければならない面もあった。慰安婦や慰安所経営者・従業員はハイパーインフレのなかで生きているのであり、そこは軍事費特別会計の円や物資配給が支配する領域ではない。このように慰安所は、日本帝国内で将兵の給与はどこでも同一であるごとく完全に統一されている軍の内部経済と、ハイパーインフレが進行している外部経済にまたがって存在していた。慰安所が兵士から受け取る花代は日記史料では円と書かれているが、実際はすべてルピーや海峡ドル表示の軍票(あるいは南発券)であった。そして、日本内地の円貨表示の水準でルピーや海峡ドル軍票を支払われても、それでは現地では到底生きていけない。これが、インフレ下で生きる慰安婦達の名目上の収入膨張が発生するメカニズムである。この日記によっても、慰安婦達の個別の収入全体は把握できない。ビルマにいた慰安婦の収入を確実に補足できる史料は、先に名前の出た文玉珠さんの事例である。1992年文玉珠さんが来日し日本政府に強く要求した結果、熊本貯金事務センター(現在、戦前の軍事郵便貯金を管理している機関 現在はゆうちょう銀行に移管)は、彼女の軍事郵便貯金通帳の貯金実績一覧を公表した(帳簿自体ではない)。これによって、ビルマにいた慰安婦の収入状態が明らかになった。文さんの場合、194336日からビルマの日本統治が崩壊する45523日までに25,846 円が貯金されている。マンダレー駐屯慰安所規定」(1943526日 駐屯地司令部)の遊興料金表は、兵士30150銭であった。彼女が先の収入をこの遊興料金(花代)で稼ごうとすると、稼働日や経営主の取り分を考慮すると、1日平均100人をこえる兵士を相手にしなければならない計算になる。もちろん、それはあり得ないことである。慰安所にも休業日もあり、将兵が全く来ない日もあったことは日記によく出てくる。連日フル稼働などということは不可能である。それが意味するとことはただ一つ、文さんの貯金は日本内地の円貨ではない、ハイパーインフレで価値が暴落しているルピー建ての収入であったということである。それが具体的にどのように彼女の手にはいったのかまではわからない。南方の慰安所は、日本軍の内部経済とハイパーインフレのなかにある軍外の現地経済にまたがって存在していたために、慰安婦達の収入にはこのような名目上の膨張が生じた。このようなハイパーインフレ下の見かけの収入額をもって、秦郁彦氏(20130613TBSラジオ番組「『慰安婦問題』の論点」)のように慰安婦が「日本兵士の月給の75倍」「軍司令官や総理大臣より高い」収入を得ていたと評価することは、過度な単純化ではなく事実認識としてまったく間違っている。

 

慰安婦が慰安所での稼働で一定の収入を得ていたことは事実である。しかし、この収入の成果を享受する条件があったかどうかは別の問題である。

(1)日本政府は、軍票・南発券で膨張した資金の日本内地・朝鮮への流入を極力規制した。慰安婦達が内地・朝鮮に送金した分については、先に述べた外地送金の引出額制限・預金凍結措置によって、月々規定の生活費水準を超える額は引き下ろせなかった。つまり、一定の額しか引き出せない状態で、すぐに日本の朝鮮統治の崩壊を迎えたと思われる。

(2)戦争末期に運良く帰国できた慰安婦が携行する現金については、基本的に送金と同じ扱いを受けた。軍票・南発券を日本銀行券・朝鮮銀行券に換える場合には、制限額以上は強制的に預金させられた。

(3)現地に残っていた慰安婦が持っていた軍票・南発券は、連合軍がその通用無効を宣言し焼却を命じたことによって、すべて即時に無価値になった。ラングーンやシンガポールなど英軍占領地域で、破棄された軍票の山が写った写真が数多く残されている。そして、現地から日本・朝鮮への帰還の際しては、この軍票の持ち出しは厳格に禁止された。

(4)軍事郵便貯金の行方も重要である。軍事郵便貯金は、本人に替わって内地・朝鮮の留守家族が引き出すことは、制度上できなかった。それら軍事郵便貯金と外地郵便局貯金はGHQにより払出が禁止され、サンフランシスコ講和後に日本人には払い戻されたが、外国人預金の払い戻しは停止された。台湾人については、1995-2000年に通帳額面の120倍という物価調整をへた額で払い戻しがおこなわれた(受取者約4万人 393000万円)が、韓国人については、1965年日韓条約の民間債務の消滅措置によって権利は失われた。つまり、朝鮮人・韓国人は戦後この郵便貯金を引き出す機会は与えられないままに、権利が奪われた。先の文玉珠さんの場合も通帳記録は確認されたが、払い戻しはされなかった。

これらの条件が重なっていたので、慰安婦達が戦時期南方において巨額の富を得たと評価することはできないと思われる。

 

【従軍慰安婦に関する歴史認識】

このように、従軍慰安婦・慰安所とは、日本国家と日本軍による戦時動員・戦時体制の中でつくりだされたものであった。そうであれば、その原因を作った日本は、まずこのような歴史の重みを謙虚にうけとめるべきであると考える。日韓におけて今なお終息をみせない従軍慰安婦問題に対して、いろいろ問題点ははらんではいるが、基本的に19938月河野洋平官房長官談話、「アジア女性基金」の活動、歴代「総理大臣のお詫びの手紙」等のスタンスで対応していくのが現実的ではないかと考える。今後これらを覆すことは、歴史的事実から離れていくし、日本の国際的な信頼性を失わせることとなると考える。

 

   従軍慰安婦問題に関心を持たれた方には、入門として次の図書をお勧めする。

吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書 1995

大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか』中公新書 2007

 

この文章は、すべて堀和生、個人の見解である(2015.1.26)